- 小川洋子の世界観を堪能したい人
- チェスに興味のある人
- 現実を忘れ、物語の世界へ没入したい人
概要
タイトル | 猫を抱いて象と泳ぐ |
著者 | 小川洋子 |
出版社 | 文藝春秋 |
「大きくなること、それは悲劇である」。
引用:amazon商品ページ
少年は唇を閉じて生まれた。手術で口を開き、唇に脛の皮膚を移植したせいで、唇に産毛が生える。そのコンプレックスから少年は寡黙で孤独であった。少年が好きだったデパートの屋上の象は、成長したため屋上から降りられぬまま生を終える。廃バスの中で猫を抱いて暮らす肥満の男から少年はチェスを習うが、その男は死ぬまでバスから出られなかった。
成長を恐れた少年は、十一歳の身体のまま成長を止め、チェス台の下に潜み、からくり人形「リトル・アリョーヒン」を操りチェスを指すようになる。盤面の海に無限の可能性を見出す彼は、いつしか「盤下の詩人」として奇跡のような棋譜を生み出す。静謐にして美しい、小川ワールドの到達点を示す傑作。
本を読んだ感想
そこにいる、そこにあることを受け入れる人々
「どうしてだろう。自分から望んだわけでもないのに、ふと気がついたら皆、そうなっていたんだ。でも誰もじたばたしなかった。不平を言わなかった。そうか、自分に与えられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身体を収めたんだ」
引用:猫を抱いて象を泳ぐ|小川洋子
少年自身をはじめ、インディラもミイラもマスターもみんな、そこにいること、そのかたちであることを受け入れています。
何か事情があってそこにいるのだろう。仕方がないのだろう。
太っていくのは心配だけれど、甘いものを食べる幸せそうなマスターを止めることはできない。
少年は祖父母にされてきたように、自分や相手を変えようとは思わないし、それが正しいとも思わないのです。
ミイラ自身もつらい目に遭うのに、「誰のせいでもない」とそれを受け入れます。
そこにあるあらゆる状況を受け入れている姿が、なんだか落ち着いた静けさと優しさに満ちています。
それは諦めに似ているけど、決して後ろ向きな感情ではない。
なんとも潔い、謙虚な姿勢ですよね。
登場人物たちの一貫したこの姿勢が、澄んだ気持ちにさせてくれます。
老婆令嬢とのチェス、老いの切なさ
老婆令嬢は少年が初めて人形の中に入り、対戦をした相手。
チェスの海、チェスの宇宙を共有できた相手。
ミイラの事件をきっかけに人形と一緒に旅に出ようとする少年を、何も言わずに送り出してくれた人でもあります。
その彼女と少年との再会は、老人専用マンション・エチュードでした。
老いてチェスを忘れてしまった彼女に、少年はイチからチェスを教えます。
「チェスを初めて教えてくれたのが、あなたでよかった。私、チェスが好きになりそう。だってあなた、教えるのがとっても上手だもの」
引用:猫を抱いて象を泳ぐ|小川洋子
老婆令嬢は、チェスを忘れるずっと前に、「あなたの先生のような方からチェスを教わりたかった」と言っていたんですよね。
老いの忘却によって、それがこんなふうに叶う。
時間や老いの残酷さ、美しさが胸に刺さる場面でした。
リトル・アリョーヒンの死は何を意味するのか
なぜ少年が死ななければならなかったのか、私はまだはっきりした答えを見出せずにいます。
一つ思うのは、別に「死ななければならなかった」わけではないのかな、と。
ただ、そのときが来た。
少年はチェス盤の下に潜るために小さな体でいることを望んでいましたが、それはチェスの海に深く潜るために自分の内へ沈んでいく姿と繋がっていると思うのです。
チェスの海では、「自分」など何の意味ももたず、そのままをさらけ出すしかないのだと老婆令嬢も言っています。
だから少年にとって、体という実体はあまり意味のないものだったのかなと感じるのです。
小さく小さく、実体から遠くチェスの海に潜っていく・・・その行きついた地点が、最期だったのかな。
おわりに
この物語のことを考えていると、自分やそのまわりのことが小さな点になって、ふっと消えてしまうような感覚になります。
実体を感じられなくなってからの方が、自由を感じられる不思議。
チェスのことには詳しくなくても、体から離れてその海に一緒に潜っているような気分になれます。
とても不思議な、美しい物語を読みました。
最後に、リトルアリョーヒンの名の由来であるチェスプレーヤーについて触れ、終わりにしたいと思います。
引用:Wikipedia
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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